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2007年07月11日

ラーメンの歴史

女の子なのにラーメン好きって男の子に敬遠されがちだけどひなは全く気にしてないよ。

だって好きなものは好きでいいじゃん!

今日はひなの大好きなラーメンの歴史について皆に知って欲しいと思っているよ。

【ラーメンの語源】
①中国語の「好了・ハオ・ラー」(お待たせいたしました)の「ラー」をとって「ラー麺」となったという説。
②中国語の「拉麺(ラ・ミエン)」の発音から「ラーメン」になったという説。
③中国語の「柳麺」広東語(ラオミン)による発音からきているという説。
以上の3つの説があるが、どれが有力な説か断定は出来ない。

【中国の麺の種類】
①「拉麺」(ラ・ミエン)-小麦粉を練ったものを拉(ひっぱる)したもの。手延べで作った麺。
②「切麺」-小麦粉を薄く延ばして手本だたみにして小口切りした麺。
③「打麺」(タ・ミエン)-青竹に足を掛けて麺帯を延ばし、折りたたんで包丁で切る麺。
④「刀削麺」-麺塊を肩に乗せ、特殊な包丁で沸騰した湯の中に生地をそぎ落としていく麺。
⑤「棹麺」(カン・ミエン)-麺帯を麺棒で延ばし、折りたたんでは延ばし、たたんだ生地を包丁で切る麺。
⑥「全蛋麺」(チエン・タン・ミエン)-卵をつなぎに使った麺。

【日本人で最初にラーメンを食べた人?】
1669年(寛文9年)に徳川光圀(水戸黄門)が中国渡来のラーメンに舌鼓を打ったとされている。当時小石川の水戸藩邸で大日本史という日本の歴史書を編纂していた際、光圀はスタッフたちにお手製の「黄門うどん」をふるまっていた。そのスタッフの一人中国人の儒教者「朱舜水」(しゅしゅすい)が、その返礼に中国式の麺を光圀にご馳走したといわれている。

【札幌ラーメンの歴史】
 大正11年に北海道大学正門前に「竹屋食堂」が出来た。創業は大久昌治氏。仙台出身の元警察官。北大の中国人留学生の賄いを頼まれて、尼港事件をきっかけに樺太から札幌に逃れてきた料理人「王文彩」を雇い入れることになった。彼の作る料理は評判が良く、多くの中国人留学生が食事に押しかけた。中でも人気があったのは「肉絲麺(ロウスーミェン)」(湯通した肉、筍や葱を載せた麺)。その後、王文彩は店を辞め、李宏業とその義兄弟の李絵堂が竹屋食堂にやってきて料理人を務めるようになった。肉絲麺は留学生の口には合うが、日本人客の口には油っこく合わなかった。そこで、おかみさんは2人の料理人と相談の上、大正15年の夏、焼き豚・支那竹・葱を入れた今日のラーメンを生み出すことになった。
 その後、ラーメン店が賑わうようになったのは、終戦直後の昭和21年から22年頃に屋台のラーメン店ができたことに始まる。その中に後に「龍鳳」を開く松田勘七氏の店、西山仙治氏の「だるま軒」、大宮守人氏の「味の三平」があった。「だるま軒」の製麺部門を独立させた西山孝之氏は様々なラーメン店と共同で麺の研究を重ね、のどごしが良く見た目もきれいな、太めでちぢれた黄色い玉子麺を作り上げる。「味の三平」の大宮守人氏が味噌ラーメンを考案し、札幌ラーメンの原形を作った。昭和30年後半から40年代にかけて全国の百貨店などの北海道物産展で札幌ラーメンの実演販売が行われ反響を呼び、全国的なブームに拍車をかけることになった。
 平成の時代に入って、従来の札幌ラーメンよりさらに濃厚なスープ、少し細めで硬い麺が特徴という旭川を発祥とする豚骨に魚介類のだしを加えたラーメンが出現する。更に東京と同様に様々なラーメンが参入し、従来の「ラーメン横丁」、「新ラーメン横丁」に加え、「山桜桃」、「桑名」をはじめ、個性の強いラーメン店が集まる琴似エリア、ここ1~2年で店の数が倍増、東京風から九州風まで各地のいろいろな味が揃う「狸めんこい通り」など新しい「ラーメン横丁」が出現しどこも賑わいを見せるようになった。

【味噌ラーメンの歴史】
味噌ラーメンは札幌の「味の三平」で生まれた。店主大宮守人氏が単身赴任の「サッチョン族」のために、豚汁の中に麺を入れたところ大好評となった。その後改良が加えられ、1杯のカロリーを考えスープの油を増やす一方、味覚を考え、ラーメンに野菜を炒めてのせ、その油を吸収させることを考案する。昭和38年に正式メニューになり全国に広まった。

【喜多方ラーメンの歴史】
大正の末期にとある中国人が屋台を引きながらラーメンを売り歩いたことから始まったと言われている。その屋台とは「潘欽星」で現在の「源来軒」(昭和14年創業)である。

【東京ラーメンの歴史】
明治43年、浅草新畑町3番地、すしや横丁の一角に「來(来)々軒」が出来た。日本のラーメン店の元祖とも言える。当時、東京で一番の繁華街が浅草、流行の発信基地でもあった。当時、既に中国料理の店は誕生していたが、庶民的なラーメン、シューマイ、ワンタンを提供したのはこの店が初めてである。來々軒の創業者尾崎寛一氏は横浜税関の役人だった。当時の横浜南京街の中国料理に親しみがあり、その経験を元に庶民的な中国料理を提供する店を開いたのではないのだろうか。その業績は大きい。その來々軒のラーメンは麺は小麦粉と卵にかん水の手延べの麺、スープは鶏ガラと豚骨に野菜を加えた醤油味。具は焼き豚、シナチク、刻み葱。まさに現在の醤油ラーメンである。当時一杯6銭。昭和51年(1976)に閉店。

【尾道ラーメンの歴史】
昭和3年頃、中国福建省出身の張氏がチャルメラを吹きながら売り歩いていたのがはじまり。麺は青竹で麺帯を延ばし手廻し機械で麺線をつくったもので、スープは牛骨と豚骨で摂った白濁したものだった。昭和30年から40年にかけて、尾道ラーメンは鶏ガラ、瀬戸の魚介類を主体とした透き通ったスープになった。

【博多ラーメンの歴史】
博多ラーメンの歴史は昭和15年頃と推測される。「三馬路」、「浜荘」という2件の屋台が博多区に出来る。昭和30年には福岡の天神から長浜に魚市場が移転してきた。忙しい市場に来た人のために提供されたラーメンはコストの安い豚骨スープに茹で時間の短い特製細麺、“早い、安い、旨い”を実現させた。これが博多ラーメンの源流となり広まって行く。

【熊本ラーメンの歴史】
昭和22年頃、当時久留米にあった「三九」で偶然煮詰まって出来た白濁スープから始まったとされている。「三九」がその後玉名に支店を出し、玉名から熊本に伝わったというのが定説になっている。熊本ラーメンの特徴である白濁したスープに太い麺、ニンニクチップやマー油と言ったスタイルは、昭和29年に開業した「東洋軒」「こむらさき」その翌年開業の「桂花」が元祖と言われている。

【鹿児島ラーメンの歴史】
昭和22年開店の「のぼる屋」が元祖と言われている。このラーメンは道岡ツナさんが横浜で学んで来たものである。道岡さんは当時横浜で看護婦をしている時、患者であった中国人料理人にスープの作り方を習ったという。麺はカン水を使わない白っぽい麺。スープは豚骨が中心ではあったが、トリガラや野菜も使い、じっくり炊き出したものであった。九州で唯一久留米の影響を受けていないラーメンである。

【沖縄そばの歴史】
・琉球王朝時代に中国の冊封使(皇帝の使者)の長い滞在を慰めるために中華麺に真似て琉球風にアレンジして献上したという説。
・明治時代、那覇の東町界隈の鹿児島商人が最初に始めたという説。

ちょっとマニアすぎるかな、でも勉強になるでしょ~

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